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伊勢原ヨガ

昨日伊勢原にてヨガをさせて頂きました。 午前中は雷が鳴っていましたが、午後には雨も上がり、夕方4時から始め、夕暮れの中のサンセットヨガとなりました。 伊勢原、小田原にて卓球コーチをされてらっしゃる講師のご夫妻とのご縁で、主人ともつながりがあり、今回このような機会をつくってくださいました。心より感謝申し上げます。 ご参加してくださった方々、ありがとうございました。お疲れ様でした。 ヨガのアサナ(ポーズ)、修正法など行い2時間あっという間に感じました。自分自身学び、気付く事が多かったです。 少しペースが速くなってしまったので、 次回はゆったり、ゆっくりと呼吸の流れに合わせ、より内観を深められるヨガにしたいと思います。 伊勢原駅へ少し早く着いたので、駅周辺を散歩しました。 伊勢原大神宮へ導かれるように辿り着き、伊勢原の土地の神様にご挨拶。 皆さまと怪我なく安全にヨガができるように祈願。 境内が子どもたちの通学路になっており、元気な子どもたちの姿を神様も見ておられる良い場所だなぁ、と思いました。 銀杏の木がきれいでした。 身体のこわばりや痛み、普段意識を向けないところに敢えて意識を向ける。 身体の大なり小なり些細な声を聴く。 何故そうなったのか原因を探る、知る。 普段の生活の中での姿勢や身体の動かし方を工夫する。 心の持ち方もみる。 ヨガでの気付きを生活の中で活かし、より快い身体の使い方、生き方をしたいな、と思います。 ご縁と出会いに感謝。 合掌。

江ノ島

ヨガを始めたのは江ノ島です。 それ以前にもジムへ通っているときに数回参加しましたが、今の自分のきっかけとなったと思える場所は江ノ島でのヨガです。 もうすぐ二年になりますが、江ノ島と湘南の海、富士山、夕日を眺めながら、自分と向き合える、自然が迎えてくれる、贅沢な時間を過ごせた事は ありがたい出逢いでした。 感謝です。 育ったのは海老名ですが、産まれは茅ヶ崎で幼少期は毎週末、海へ行っていたそうです。 記憶には残っていませんが、潜在的に身体は覚えているのか、節目節目に湘南へ足が赴きます。 二年前、江ノ島のヨガへ行ったときもそんなときだったのだと思います。 今日はヨガと出逢えた江ノ島の地へ一年程の期間を置いて行って参りました。 先生とは久しぶりの再会でしたが変わらず、あたたかく迎えてくださり、とても快いクラス、時間、空間、ひとときを過ごしました。 江ノ島の弁財天様も喜んでくださったのか、素晴らしいプレゼントをくださり、先生がお話してくださったのですが、彩雲が出たのだそうです。 江ノ島から縦長に伸びる虹。 写真に納めたものを見ましたが、とても綺麗でした。 良き事が起こる吉兆なのだそうです。 江ノ島から出る虹の始まりを見た気がしました。 江ノ島は台風や嵐が来ても何故か江ノ島だけは雨も降らず、通り過ぎる。そんな不思議な場所。弁財天様が見守っているのですね。 始まりの場所である江ノ島の地。 しあわせを感じた一日でした。 ナマステ。

ヨガ、自然、いのち

今年の元旦に泣いた記憶があります。 涙もろく喜怒哀楽どんな場面に於いてもよく泣きます。 今年、周りの友達にも先輩にも妹にも知人にも赤ちゃんが産まれました。 新しい生命の誕生。 赤ちゃんは泣く事が仕事で言葉に出来ない事を泣いて必死に伝えようとします。 赤ちゃんを見る度に、今縁あって出逢えた体操教室に通うすくすくと育っている子どもたちのことを想い幸せを願います。 より良い社会を創り、渡したい思いと未来の社会に貢献してくれるであろう子どもたちの成長を祈ります。 前職はどちらかというとご年配の方と多く接してい たので人の一生について今、学んでいます。 ひととの出逢い、運命はきっかけとなり人生を大いに変えていきます。 今年は自分自身を産まれたばかりの赤ちゃんのように感じていました。 ヨガも幼児児童体操も一から始めた私はまるで赤ちゃんのようにまだヨチヨチ歩きの状態。 初めてのものを見て、真似て、自分のものにしていく。 様々な情報を感覚や体感から取り込み、知識を知恵として実行、実践する一歩手前。 まだ何も形に出来ていないけれど初めて出逢うことに感動し、驚き、楽しんでいる。それは子どもと同じです。 ヨガで身体の感覚が大きく変わりました。 身体での体感、実感であるので言葉で上手く表現することは難しいです。 それでもあえて言葉にすれば空気の密度が濃くなったという感じ。言い方を変えると、 世界が色濃くなった、空気が吸い付くような感じ、地球の地面、地とつながっている、緑が濃い、世界の彩りが鮮やか、 自然とつながっている。 こんな風な不思議な表現になります。 この感覚を知らなければ、ずっと一生体感としては気付けなかったかもしれないです。 やはり 現代の暮らし、生活の中では人は自然と遮断されています。切り離された存在になってしまう。比べてしまうと以前は自然と繋がっておらず取り残されたように宙に浮いてる感じだった、とも思えました。 身体の実感があまりにも少ない。電子機器の影響や身体の能力が衰え機能が低下している為に不自然で異常な状態になっているのかもしれない。 ヨガをして身体で感じ得ました。 釈尊やヨガを伝承してくださった偉大なる方々の言わんとする事が、頭で知識として理解していた事が、あぁ、こういうことなのかもしれないと身体で分かったような気がしました。 それ以来、自然のことを思うようになり、考

オモテ、ウラ

先日、中国の八卦掌を学びました。 ご指導頂いた李先生は初めてお逢いしたのですが、私の身体と心の動きを全て見透かされているようでした。 その上で丁寧にご指導してくださり楽しいひとときを過ごしました。 お話の中に、身体の中心をつくりバランスを保つのは精神であると仰っていました。 しなやかさと力強さは背骨と精神から成り立つ、と。 姿勢という言葉は身心、両面で表現される言葉であるように身体と心は切り離せません。 ヨガ、武術と出会い表裏一体を感じます。 世界は陰陽のバランスで成り立っています。 一人の人間にも表裏があり 度合いの違いがあるだけで対になって出来ています。 100円の硬貨は100と反対に桜が書かれた絵が。 落ちる木の葉も然り。 人間は前側にお腹、後ろ側に背中といったように。 表だけ裏だけの人間や物事はきっとないと思いますし、それが自然です。 今、問題になっている食品の誤表示は表だけ良く見せようという不自然な結果の現れです。 良くも悪くもそのまま存在するのが自然です。そして対象の物事は 良いのか悪いのかも捉え方により変わります。 更に抽象的になりますが、そこに光が入れば闇も消えたり、光の角度で違う見え方をします。 一方的に捉えるのでなく多面的に捉える。 二次元でなく、三次元のように質感や立体感を得て柔軟に本来の姿を見たいです。 その方が深みを増し、より楽しいです。 生涯を通して身体を研究されている先人の方々に出逢う度、感じるのは身体の深さ。 身体は海のようです。 外からの見た目だけだと深さは分りません。浅瀬と一緒かな、と思ったりします。 身体や心の動き、共に過ごすとその深さが増していきます。まだ、深い。 どこまでも透き通っていて、濁っていない、そこには快い流れがあります。 腰痛、首、肩の痛みや強張りは小さな川の流れに石が入り、せき止められて木くずやごみが詰まるといった感じです。 後日、器用でない人間が同時にいくつも吸収したので身体のサインとして知恵熱のようなものが出ました。 学びを深めていきたいのですが、許容量をオーバーしたようなので今回、身体が身を持って教えてくれた、自分を知る事が出来た、と身体に感謝と癒しの気持ちを持って少しゆっくり歩を進めます。 ヨ

ヨガと日本人

ヨガは約4500年前から歴史が始まっています。 人間にとって必要なものでなければ淘汰され失くなっていたでしょう。 私は日本人ではありますが、インドが起源とされているヨガに出逢えて、身体を通し歴史を学んでいます。 国境や国籍や人種や異性の違いを越えて善き事は拡がっていきます。 時代の流れ、背景とも関わりながら、ひとの身体も心も育まれてゆくのだろうと実感する事がありました。 第二次世界大戦が終結し、平和と代償に日本は失ったものがあると思います。 戦争を論ずる言葉で『その国の歴史、文化を奪えば征服できる』と偉人が言っていますが、日本もそれに外れていません。 欧米の文化を受け入れた分、日本の文化としての歴史教育が失くなりました。 今、古事記などが書籍で分かりやすく解説され店頭でも目にします。 現代社会に生きる私たちは日本人の歴史や心を知るため、そこに息づく日本人の心を求め多く読まれているのだと思います。 語り始めると止まらないので、前置きはここまで。 先月、初めて武術をやりました。 主人が古武術を通しての身体操作を研究しているので受けに行きました。 長く一緒に居ますが、一度もきちんと学ぼうとした事はありませんでした。 それは理解が出来ないということと、学びたい気持ちが沸かず、何故か前向きな姿勢になれませんでした。 合う、合わない、好き嫌いも人にはある、個性、生理的なものだ、とずっと思っていたのですが、ヨガを始めて”違う”と気づきました。 欧米化社会になった日本。 医学も主流は西洋医学。 考え方も物質主義。 資本主義の経済。 学校には英語教育。 体育もスポーツ。 体育学もスポーツと運動生理学としての西洋医学。 義務教育の頃から、欧米、西洋に親しんでいる私たちには東洋の考え方が染みついていないのです。そしてそれは身体にも。 ”身体と心はつながっている”と感じる事は今までにありましたが、ここまで強く感じる事はありませんでした。 武術が出来ないのです。身体が全くいうことをききません。 不思議でした。 何ひとつ出来ませんでした。初めから上手くできるものはないと思うのですが、ここまで出来ないのかと思う程でした。身体が戸惑うのです。頭で理解できたとしても身体が動かない。 スポーツには自信があり身体を動かす事が大好きですが、武術は意識するもしないも自然と避けて通っていた分野

ブログはじめました。 きっかけは自然療法家、東城百合子さんにお会いした事がひとつあると思います。 講演会での一言です。 「何も言わないのは“不幸の種”を蒔いているのよ。」 その言葉が胸に突き刺さり、そのまま帰宅し、 今日に至ります。 曖昧にしたり、逃げたり、他人任せ、発言を回避、今の政治家然り、大人社会、現代の日本の姿です。 今、ご縁ありまして、子供達と接しています。身体を動かす事の楽しさや、身体の動かし方を一緒に行っています。 まだ始めたばかりの端くれなのですが、子どもたちの心や身体の使い方や考え方は大人からの反映であるな、と。 ”子供は真実を映す鏡"と言いますが、本当にそうだと思います。 大人がマイナス思考だと、子どももマイナス思考になり、大人が真剣で無かったり、集中していないと子どももそうなるのではないだろうか。 いじめがあるのも、大人社会の生存競争が激しいからではないだろうか。 子どもはすべてが初めてです。 見て、マネて、学んだものがすべてになります。 大人が迷うと子どもも迷う。 親が自身の心や身体の声が聴けないと、子どもも親と同じように無理をしてしまう。 “~鏡”の話をもっと突っ込んですると、私には怒りの感情があまり芽生えません。何でだろう?と大人になってから疑問だったのですが、(周りが疑問に思っていた)思い返してみると、子どもの頃に怒られた記憶がありません。母には一度も怒られる、叱られるという事はなく自由に育ててもらいました。父には一度強く叱られたのですが、妹を泣かしてしまい押入れに隠してしまったときだけです。 と、そんな経緯から喜怒哀楽の“怒”が現在に至っても生活の中に少ないです。 大人が前向きに明るく楽しく生きていれば、今は子ども社会に生きる子どもも笑顔で今を楽しく過ごせるのだろうと思います。その心の想いが培われ、育んで、大人になってほしいと願います。そんな大人が社会にたくさん増えれば日本は安泰です。 ヨガのことを書きたかったのですが、また次回。